基本情報
- 1982年9月10日生まれ(戌年 おとめ座)
- 血液型:A
事業内容
- 企業研修
- 講演
- セミナー
- 野球解説
- コンサル
- 各種イベント
- オンラインサロン運営
理念
~縁ある人の代わりのきかない存在に~
両親
父:勝
170㎝50㎏のヒョロヒョロボディ。体育会系とは真逆の人間。無口で頑固オヤジの雰囲気。一般企業の会社員で、家ではずっとゲーム(ロールプレイング)。会社ではひょうきんだったらしいが(同僚の方からの情報)息子は父のひょうきんなところを一度も見たことがない。
母:惠子
超が付くほど真面目なタイプ。勉強をやらない息子をどうやったらやるようになるのか、いろいろ策を練って試してみたが、息子には響かず、途中であきらめた。
そんな両親の一人息子として育つ。
ストーリー
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泉小学校(埼玉2年間)一番仲の良かった友人と共に野球を始める。
毎週土日の練習が楽しく、野球に夢中に。この頃から漠然と「プロ野球選手になること」という将来の夢を抱く。
しかし、小児喘息を患っており、すぐ体調を崩して学校を休む、体の弱い少年だった。
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王子小学校(兵庫2年間)父の仕事の転勤により転校。
その際に、他の習い事(習字、英会話、スイミング、サッカー)は全部辞めたいけど野球だけは続けたい!と両親に思いを伝える。
しかし、引っ越した地域には野球はなくて、ソフトボールチームしかないため、ソフトボールチームに入る。
小学3年ながらチームメンバーがギリギリだったため、すぐにレギュラーとして試合にでることができた。
ポジションは3年の時はファーストで4年の時は左利きにも関わらず、すばしっこさが買われてセカンドに(左利きがセカンドを守るのは超異例)。
試合に出て、野球の基本である「打つ・守る・走る」ことの楽しさを全身で感じる。
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江原南小学校(徳島2年間)また父の転勤により転校。
次の小学校には少年野球チームがあり入部。ここでもチームメンバーが少なく、すぐレギュラーに。
5年生は主に外野手として試合に出場。6年生になり転機が訪れる。
これまで憧れていたが、やったことがなかったピッチャーに挑戦することになる。
「ピッチャーは野球の主役。良いピッチングをして目立ってやろう!」と思い気合いを入れて投げ込むが、コントロールが悪すぎてボロボロ。ピッチャーとして目立った成績を残すことができなかった。
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江原中学校中学でも学校の部活動で野球を続ける。
自分たちの年代のチームになると、再びピッチャーに挑戦。小学校時代のコントロール難は多少克服されており、エースとして市大会優勝。
自信を持って県大会に出場したが、2回戦で早々敗退。井の中の蛙大海を知らず。県では自分の投球が全然通用せず、力の無さを思い知る。
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川島高校公立高校に入学し、野球部に入部。
野球名門校ではなく人数もギリギリ。おかげで下級生の頃から試合に出る機会に恵まれ、2年生から背番号1をつける。
自分でもどんどん成長していると感じていた時に突然肘に痛みを感じる。靱帯を痛めてしまいボールが投げられない日々を過ごすことに。
病院に通いリハビリを重ね徐々に回復していき、自分たちの年代のチームになる頃には完全復活。
新チーム結成から秋の大会まで練習試合を含めた10試合以上を連勝負けなしの快進撃。
しかし、高校野球の全国大会である春の選抜甲子園出場のかかる地区予選では3回戦敗退。高校野球生活最後の夏の地区予選でも3回戦敗退。
憧れの甲子園に行くことができなかった。しかし、同じ志をもつ仲間と共に汗を流した日々は一生の財産。
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駒澤大学これまで多くのプロ野球選手を輩出している野球名門校と呼ばれる駒澤大学に進学し、野球部に入部。
初めての野球名門校のためこれまでの環境とは違い、厳しい上下関係、寮内・グラウンド・部内のルール、1年生としてのふるまいの仕方など、細かいことを言い出したらキリがないほど野球のプレー以外でのことでギャップがあり戸惑う。
そんな初めての経験することばかりで心が折れそうなときに、初めての大学野球公式戦(春季リーグ戦)観戦。開幕戦である青山学院VS中央大学の試合で、当時青山学院のエース・石川雅規投手(ヤクルトスワローズ)の相手打線を寄せ付けない圧倒的な投球を目の当たりにし、衝撃を受ける。
その日から「この人みたいになりたい!!!」と猛烈な憧れを抱き、ひたすら追いかける。
そんな決意で大学野球に打ち込み、徐々に力をつけていき、2年春季リーグ戦で公式戦初登板を経験。そこから登板を重ね、大学球界では最もレベルの高いと言われる東都リーグにて、4年秋季リーグ戦で3連続完封を含む4完封、6勝を記録し初のベストナイン獲得。
自分でも大学4年間で大きく成長したと実感する。しかし、この時点でドラフト指名されることは無く、「プロ野球選手になる」という夢を叶えれずにいた。
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トヨタ自動車社会人野球チームのあるトヨタ自動車に入社。
そして、この社会人野球をやっていくうえで、これまで「プロ野球選手になる」という「漠然」としていた夢から、ビジョンとして「明確」に描くようになる。
これまでのガムシャラに練習を重ねる方法とは違う、頭を使って「考える」ことを取り入れる。これが功を奏し、2年目から主戦としてマウンドを任されるようになり、この年の全日本代表メンバーに選出されるまでに成長。
いよいよプロ野球という世界が近くに感じるようになる。自分自身でも1日1日がプロ野球選手に近づいているという実感があり、毎日がワクワクしていた。
恩師と呼べるような方々とたくさん出会い、練習メニュー・体のケア・マウンド上での思考など、徹底的に磨き、レベルを上げ、社会人3年目には主戦で試合に出場し続け、トヨタ自動車悲願の全国大会初優勝に貢献。
個人としても大会MVPを獲得。これまでの野球人生で全国優勝や胴上げ投手という経験はなかったが、社会人野球でその両方を経験することができた。
決勝戦後に、初優勝を果たしたメンバーとビールかけをしたことは最高のおもいで。
そして3年間の社会人野球の経験により、自分の投球スタイルを確立させることに成功し、迎えた2007年11月19日での大学・社会人ドラフト会議にて千葉ロッテマリーンズから1位指名(外れ1位にてロッテ・日本ハム・西武の3球団競合。抽選によりロッテが交渉権獲得)を受ける。
これまでの高校、大学時代にはドラフト候補にもあがることすらなかったにもかかわらず、最高順位である1位指名で、幼少期からの夢であった「プロ野球選手になる」ということが現実になる。
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千葉ロッテマリーンズ社会人野球出身のドラフト1位ということで即戦力として千葉ロッテマリーンズに入団。周囲からの期待も高く、当然自分自身も1年目からバリバリ結果を出す!と意気込んでいた。
しかし結果を意識しすぎるあまり自分で自分を追い込み、本来の自分らしさを出せずにいた。思うような成績が残せない日々を過ごす。
そんな状態が入団してから5年続き、幼い頃からの夢の舞台であるプロ野球という世界で大きな挫折を味わう。
通常5年も目立った成績を残せなかったら戦力外でもおかしくないところ、6年目も選手として迎えることができた。
ただこの年がラストチャンスだと感じていた。この年も前年までと同様の成績なら間違いなく戦力外だろうと。
これまでの5年間は自分の苦手なことを克服しようと考えて取り組んだりしていたが、この年は、「どうせダメなら最後の年なんだし、やりたいようにやってやる!」と開き直る。
苦手なことを無視して自分の得意なことをどんどんやっていこうと決めた。その方が例えダメだったとしても悔いが残らないと思ったから。
そして、ラストチャンスとしてのぞんだ2013年に、対左打者専門のセットアッパーとして51試合に登板し、2勝1敗20H防御率3.38というプロ野球人生で最高の成績を記録し、チームのクライマックスシリーズ進出に貢献。
思考を変えるだけで結果が変わってくるということを、身をもって経験する。5年間思うような成績が残せず悔しい思いをしてきたが、この年の活躍ですべて報われた気がした。
それぐらいこの年はプロ野球選手として充実していた。そして2015年シーズンをもって8年間の現役生活を終え、現役引退。
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現在2015年10月に、球団の来季構想外により戦力外通告を受け、現役引退。
一生続けていける職業ではなく、やめなければいけない時はいずれくることだが、実際に伝えられた時は大きな衝撃を受けた。今でも昨日のことのように出すし、何とも言えない感覚を味わった。その後は、多くの人がトライアウトを受ける中、受けずに引退することを選択。
自分の中では毎日毎日、一軍で試合に出るためにはどうしたらいいのか考えながら練習し、普段の生活でも野球中心で行動してきた。
「一軍で試合に出るためならなんだってやる!」そんな思いで日々過ごしていた。一軍の試合に出るために出来ることはすべてやってきた。やれることをやった結果が戦力外通告。これ以上野球を続ける気力・体力は、もう残っておらず、そこから、野球以外の道を探すことに。
いざ次にやることを考えてみようと思っても、今まで野球が上手くなることしか考えたことがなく、野球以外で何をしたらいいのか全然思い浮かばない。
野球のように「やりがい」を感じられることをやりたいと思っていたが、自分の「やりがい」は何なのか・・・。自分一人でいくら考えても、「野球」という答えしかでてこない。「野球ができない」→「野球以外のことを探す」→「やりがいないとイヤだ」→「やりがいって何だ?」→「やりがいは野球」→「でも、野球ができない」・・・ この思考の繰り返し。
このまま一人で考えていても答えは出ないと思い、友人に相談に乗ってもらうことに。
そこで若い時から起業・独立している会社経営者の方と出会う。
食事をしながら思いや考えを話していく。すると最後にその方から、「現役時代にはどんな不安があった?」と聞かれ、「一生できる仕事ではないし、一年契約だからいつクビになるか分からないし、やめた後の収入面などの不安がありました」と答える。
すると、「キミのような不安を持った現役選手の不安を取り除く手段として出来ることはたくさんある。
その手段を、仮にこれからプロ野球の世界に飛び込んでくる選手がいたとして、その選手に対して、俺が話すのと、全く同じ内容をキミが話すのと、どっちが選手のタメになると思う?間違いなくキミだよ。俺が選手だったとしてもキミから話を聞きたいって思うはずだよ。
これキミにしかできないことなんだけど、これって、やりがいにならないの?」と言われ、これだ!と思い、一気に世界が広がった。これまで野球では、自分にしかできないことを突き詰めようと思って毎日練習をしてきた。
自分が試合に出るためには、代わりのきかない存在にならないといけない。「この場面は服部だ。服部の代わりは誰にも務まらない」とならなければ試合に出られない。現役時代はずっとそのことを考えながら野球をやっていた。
自分にしかできないこと、代わりのきかない存在・・・野球以外でもそういう存在になれるかもしれない!そう思ったら、答えが出ていた。「自分にしかできない事!これをやりがいにしよう!」その思いを胸に、今、プロ野球選手専門で資産形成をしている。
そして、自分にしかできない事として、これまでの自分の野球人生で学んだ財産を、多くの人の人生が好転するようなキッカケになるように伝えていこうと思い、講演活動を精力的に行うことを決意。
「目標設定・達成」「物事の考え方・捉え方」「自己分析」などなど、自身の野球人生で学んだ数多くのテーマを中心に語る。
経験した本人にしか語ることが出来ないことを独自の視点からビジネスに置き換えて、主に企業の社員育成や新入社員教育や研修講義に特化した講演を中心に活動中。